クワガタムシ科(Lucanidae)についての調査記録など

目的はverificationismに基づく原典検証・情報整理・批評説明。なお非営利・完全匿名を前提としています。

【論考】ホロタイプ標本を壊すな

 ホロタイプ標本参照必要性や、特徴を観察する意義などはこれまでの記事で、教訓を用いて説明した。今回記事にするのは「標本の損壊」について。

 「ホロタイプを壊しちゃいけない」なんて当然なんだから心配しなくて良いだろうと言う人もいるだろうが、実際では其の理想的な状況とは裏腹に、信じられない事が現実にあるから念押しをするものである。

 標本が一部損壊すると、その生物個体の形態は完全ではなくなる。つまり資料価値が劣化する。たまに交尾器の欠損した現生種の個体もあるが、そういう個体は殆ど価値が無い。データラベルの欠損、自然界での再現性から遡及されうるデータ改竄痕跡もミスリーディングな理解を促しかねないため損壊である(紙媒体だから手記でも印字でも時々ある)。

 そしてホロタイプは学術上非常に大切な筈の標本。分類群其々の物証の核である。原記載での生物種としての特徴説明が乏しい分類群がパラタイプ共々全て失われてしまえば、生物種としての再現性を完全に失い、空想生物との生物学的種概念上の差異が無くなる。第二次世界大戦など世界大戦時に博物館ごと爆撃されて学名の利用価値が無効名程度になった分類群も多い。ここに全く理解が無ければ定義された学名が消え失せかねないし、其れを日常的にやっているのが研究者側だった場合はかなり危ない。

https://m.srad.jp/story/17/05/13/2144218

 ともすれば、今の時代で公言上の其れならば、ホロタイプ標本とは非常に大切に扱われている筈である。昔から博物館の金庫など非常に厳重な場所で管理され、逸失や損壊を防がれている。しかし、実際にはそんなに大切に扱われていないのでは?という事例にしばしばぶつかる。

 具体的な例を示す検証のため図を引用する。


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(「Gilbert Lachaume. 1992. Les Coleopteres Du Monde : The Beetles Of The World - Volume 14, Dynastidae américains.」より引用したHorridocalia delislei Endrödi, 1974のHolotype図)

 例として示すヨロイカブトムシ:Horridocalia delislei Endrödi, 1974は同出版物記述から、たった1頭の標本で記載された分類群で、ホロタイプは貴重な資料と分かる(※1974年〜辺りの時代は未だ国際動物命名規約の一般的理解も完全から遠く、また交尾器観察や変異検証が一般的では無かったから1頭だけで記載されている例が多い。であるためシノニムになっている分類群が多いが、当分類群はたまたまシノニムの可能性が無くて学名の有効性が生き残った。ただし当分類群の近似近縁別種の可能性がある個体群が発見された場合は、複数個体同士の検証が必須になる)。私も1♂ボロ個体を持っているが、実物は予想以上に迫力のあるカブトムシである。

 さて、同ホロタイプ標本の、最近の鮮明な画像がパリ自然史博物館によってネット上で公開されている。


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https://science.mnhn.fr/institution/mnhn/collection/ec/item/ec8816?lang=en_USより引用したHolotype図)

 見れば分かるが、1992年の文献掲載時では存在した後脚付節が両方とも欠損して見当たらない

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https://www.gbif.org/tools/zoom/simple.html?src=//api.gbif.org/v1/image/unsafe/https%3A%2F%2Fmediaphoto.mnhn.fr%2Fmedia%2F1612360540359Ntzv1y7R7e3amz2pより引用したHolotype等図)

 触角まで欠損が見える。

 標本の姿勢が異なっていたりしてあるので、再形成の際に誰かが壊したのだろうと考えられる(管理責任者に責任が問われて然るべき)。しかも外れた部位が保管されている気配が無い事も肝が冷える。1992年の文献掲載時で見える付節も参照に足りるほど鮮明では無い。当分類群については近似未記載種が発見された場合に、後脚付節の比較観察が困難になったと言える訳である。正直な感想を言えば「世界的な公的資料に何やってくれてんの?」となる。しかも其の欠損状況を生み出しているのが、これまで殆ど学者・研究者らによるものと分かるから脱力感が凄い(最近は口達者で不器用な研究者が本当に多い。せめてそんな豪快に標本を壊さないとかマトモな修理が出来る程度の技術を身につけるまでホロタイプを触るな)。技術は訓練でしか身に付かない。経験もなく知らないで触ると大変な事になるのである。

 ちなみに人によっては別個体からパーツを代用して移植する人がいるが、ミスリーディングなコンタミ個体になってしまい参照価値を落とすため其処は修理しない方が良い。

 こうした事例は他にもあり、私が出会ってきた破壊済ホロタイプは世界的な希少種のものばかりであった。人気故に触る人が多いという事が原因なんだろうか。

 ロンドン自然史博物館にある有名希少種サソリクワガタ:Platyfigulus scorpio Arrow, 1935のホロタイプは各所欠損があり、過去の文献掲載時に比べて脚1本はまるまる逸失状態であった。ジュネーヴ自然史博物館にある南インドのアエノバルブスシシガシラツノヒョウタンクワガタ:Dinonigidius ahenobarbus De Lisle, 1974のホロタイプも交尾器を出された際に脚を壊され部品がエリトラにくっつけられていた(これは日本の某大学の某学者による犯行と分かっている。修復に自信が無いなら諸博物館がやっているように紙に糊付けするか失くさないようにマイクロチューブに入れてラベル式の保管をしろと言いたい)。また、ドミニカンアンバーのアンバリクスツツクワガタ:Syndesus ambericus Woodruff,2009も原記載で研究機関での管理下で破壊と修理がされたと記述されている。いずれもホロタイプ1頭か世界的に10頭も標本資料が無いような超希少種ばかりである。

 損壊の程度によっては独立分類群としての証拠部位が失われ、完全な標本に基づくネオタイプが必要となりえすらする。各分類群における重要証拠其々のホロタイプを過失とはいえ破壊しうるような人々が学者になってはならない。

【References】

Endrödi, S. 1974. Horridocalia delislei gen.nov.sp.nov. Folia Entomologica Hungarica, Budapest 27(1):49-52. 

Gilbert Lachaume. 1992. Les Coleopteres Du Monde : The Beetles Of The World - Volume 14, Dynastidae américains.

Arrow, G.J. 1935: A contribution to the classification of the coleopterous family Lucanidae. Transactions of the Royal Entomological Society of London, 83: 105–125, plate VI.

de Lisle, M. O. 1974. Troisième note sur quelques Coleoptera Lucanidae nouveaux ou peu connus.
Revue Suisse de Zoologie 80(4): 785–804.

R. E. Woodruff. 2009. A new fossil species of stag beetle from Dominican Republic amber,with Australasian connections (Coleoptera: Lucanidae). Insecta Mundi 0098:1-10

【追記】

 希少種のホロタイプへの扱いが悪い研究者が多いのは何が起因しているのか、思い当たる節が沢山ありすぎて考察が難しい。ホロタイプ等標本の扱いにかけては、美術系や技術系の本業を持つアマチュア虫屋の方が丁寧ですらあると思える。とりあえずこういう事があるのだから複数のタイプ標本があって悪い事は無い。1頭だけだと損壊の激しいホロタイプで支えられる分類群の参考が困難になる。ホロタイプ指定標本の売買による来歴信頼度の損傷や、逸失の可能性も深く懸念される。

 またデータ損壊の話で言うと、私が比較検証で必要だと言われ貸した標本が全くラベルと異なるデータ内容に改竄された状態で書籍に無断掲載されたりなどの経験がある。ビジネス倫理に乏しい人気取り本意な業界とは知っていたが、そんなにまでなのかと(以降、私は相当に信用出来る友人以外には標本を貸さないとした)。理由は明確で、掲載はしたいが、単純にABS問題などにかかる、どんなレギュレーションに抵触するか分からないからというものが起因する。たしかにデータが根拠で撤回される論文もある。だが嘘を公文書に掲載するのはミスリーディングな理解を促しかねず概念の損壊と考えられるため、なれば記述しない方がマシと考えられる。

 ちなみに、撤回された論文の学名というのは国際動物命名規約第四版の、以下条文が関わると考えられる。

8.2. 公表は棄権し得る. 公的かつ永続的な科学的記録のために発行するのではない,もしくは、命名法の目的のために発行するのではないという趣旨の言明を含む著作物は、本規約の意味において公表されたものとならない.

8.3. 学名と行為は棄権し得る. ある著作物が, そのなかの学名と命名法的行為のすべてあるいは一部が命名法の目的に関して棄権されているという趣旨の言明を含んでいるならば, 棄権されたそれら学名と行為は適格ではない. そういう著作物は公表されたものではあり得る (すなわち, そのなかの分類学的情報は、公表されたが抑制された著作物中の分類学的情報と同じ命名法的地位をもつ. 条 8.7.1 を見よ).

8.7. 抑制された著作物の地位. 命名法の目的のために審議会が強権 [条81] を 発動して抑制した著作物であって, 本条の条項を満たしているものは, 本規約の意味において公表されたものであることにかわりはない.ただし, 審議会が,その著作物は公表されなかったものとして扱うと裁定した場合 はこの限りではない.

8.7.1. そのような著作物が公表された記載や描画の出典として適格であることにかわりはない. しかし, 学名や命名法的行為 (担名タイプの固定や、 条24.2による優先権の決定など) を適格にすることができる著作物という点で適格性を失う.

(国際動物命名規約第四版より引用)

 つまり撤回された論文に含まれる学名は、「公的かつ永続的な科学的記録のために発行するのではないという趣旨の言明を含む著作物」に含まれる学名になるため、「担名タイプの固定や、 条24.2による優先権の決定などの適格性を持たない学名」という理解になりうると考えられる。確かに撤回された論文は永続的な頒布と参照を期待出来ない。

 しかし今回の記事タイトルは見返す度に笑ってしまう。なんて滑稽な話なんだろうか。

自由は秩序を作り、強制は無秩序を作る。
(ジャン・アンリ・ファーブル)