クワガタムシ科(Lucanidae)についての調査記録など

目的はverificationismに基づく原典検証・情報整理・批評説明。なお非営利・完全匿名を前提としています。

【俗談】先人の誤同定ラベルは捨てないでおこう

 誤同定はどこかしこ世間では溢れに溢れているとはこれまでの記事に記した。誰彼にマトモな事を求めても、各々能力限界があり大自然から返り討ちに会う事がしばしばあるのがこの世界だ。これから興味を持ち正解や真実を知り沢山の標本に出会う人達。そんな人達に、側から見れば結構性格の悪い趣味を指南すべく書いたのが今回の記事であるが、難しさに溺れ苦しんでしまう人もいるかもしれない。しんどくなったらすぐに当記事を読むのを辞める事をお勧めする。だが深く知れば知るほどに必ずぶつかる現実である。

 標本を観察する時には殆どの場合にラベルを見る。そしてその中には同定の記述もある場合が多少ある(予断や蛇足のリスクも考えられるため、無い場合の方が多い)。そして古い標本ならば必ず誤同定や誤記載データの記述に出くわす。其れは先人によるものであり、もしかすると著名人の誤同定かもしれない。貴重なものだからという理由ではなく、その誤同定は「著名人など先人も誤認をした」という認知に関する資料になるし自身への警鐘や戒めにもなるので残しておいた方が良い。

 さすがに誤同定は無いんじゃないかという印象が普通の博物館に行っても古い収蔵品の誤同定ラベルが見られる。展示では大抵が正確に同定されているが偶に誤同定が混じって放置されている。ボランティアの人がコレが正しいんじゃないかな?というラベルを新しく付けている事もある。しかしその再同定も図鑑やスケッチ或いは絵画からの絵合わせであり真か否かまで補償する域には到達していない。つまりやっぱり誤同定は日常茶飯事になる。

 客観的に見て誤同定は恥ずかしい。それもだいぶ詳しくなって態度を大きくして誤同定をすると凄く恥ずかしい。私も当然だが人間なので先天的バイアスに気付かず偶にやってしまう。だが其れでも気付いたならば、すぐに「ああそうか」と正確な認知に改めた方が良い(無意味なプライドの為に時間を浪費するのは勿体無い)。だが後付けで誤同定をやらかす人もいると考えると一瞬には片が付かない事も多いと考えられる。

 厳密な同定が出来ないならば「?」を付けておくと正直であるので倫理的に良い。他人の個人コレクションへの口出しは相当仲が良くないなら面倒な事になりかねないため辞めておいた方が良いが、自身の管理下にあるならば決して放置はしない方が良い。しかし、誤同定というのは法的にどう考えれば良いのだろうか。誤同定や誤同定を促す活動をしている学者は多いが、アマチュアも同様の事をしている人は多い。だが、責任ある人間からの影響であると、他人にとっては騙されているに等しく、応用する論文上に影響すれば不正研究という可能性すら想起しえる(研究不正に関わるコンプライアンス研修では、上長など責任者の不正を知りえた上で放置すると共犯であると習う)。であるので、私は専門にしている分類群ほど、相当分類学上の同定で真実に到達した個体でもなければ標本に同定記述を入れないようにしている。専門外については、知識が浅いので同定記述を「?」付きでラベルに書く。

 同定という作業は、認知と識別の組み合わせである。だから種同定に限らず、考え方にも誤りがありうる。例えば私がこうやってブログに本音を書き殴る事は本来で言えば紳士的なものではないだろうから、ある意味で誤った思想を内包していないとは言い切れないと注記する。だが単純に水は低きに流れるが如く低レベルな社会になっているのに合わせていれば、自分もまた低レベルな事をせざるを得ない。こんなブログを作らなくても良い世界が理想的ではあったのは間違いないが、当然の事をするためとするならば是非もないのである。

 昔から専門分野の分類を同じくする先人達とも正確な種同定のしんどさはよく話題にしてきた。そこでもやはり「分かる事だけをラベルに書く。分かっていない事を書くのは嘘を言っているに等しい。」というグウの音も出ない正論が出てくる訳だが、そんな感動的な事を言っていた人もしっかり誤同定をしていた。誰かの受け売りで確固たる概念化がなされていないと、言葉だけで都合よく考えてしまいバイアスにやられる。過去記事のパレイドリアに関する話題に通ずるものもあるが、人間の思い込みというのは恐ろしいまでに違和感なく頭の中で同居している。まさに誤同定とは人間的な行いと言って良いくらいに眩い瑕疵なのである。責任ある人の誤同定ではないならば表現の自由と言っても良いかもしれない。

 さて、とはいえ同定というのは自他共に効率良く生物種に関して色々な応用学問での考察をするのに利用される。だから誤同定をされた資料を用いて書かれた応用生物的な論文は上流の根拠で間違いをしてしまっているため結果も再現性に難ありなど致命的なミステークをしたという事から逃れようが無くなる。モデル生物のキイロショウジョウバエなどは、応用生物学で正式な知見が残される場合には遺伝型すら誤同定が許されず、使用されるのはOregon-R や Canton-Sの標準野生型系統であると相場が決まっていて、必ず論文のメソッドなどで記述説明が為される。

 また誤同定している人と会話しても話がなかなか噛み合わず、虫談義も難しくなってしまうためデメリットは大きい。

 誤同定をしない為には大変な作業が必要になる。他の記事で書いた様々な葛藤から察してもらいたいように、もはや信じられないくらいに網羅的且つ集中的な観察をしなくてはならない。これは昆虫類の正確な同定データや同定方法が、ネット上での紹介が少なかったり纏まりが無いため現在のAI技術には再現出来ない。だがまぁ誤同定ならば事実既にAIに真似されている(笑)種分類というのは曖昧なセンスでは出来ない。曖昧で良いと考えている人は最早AIに存在価値を奪われている

 だが同定以前に標本と其のデータに嘘や加工が混じっていると、正しい同定にはならない。例えば最近だと標本を集めるには良い個体が少ない。飼育品がよく売られているが、交雑などコンタミによる遺伝子汚染の可能性が無い個体以外は資料にならない。しかし遺伝子のコンタミが無い個体、例えば自身で採集したり、輸入されたにしても交雑の心配がなかったり、時系列的に偽データの可能性が考えにくいする個体などの累代個体ならば資料にはしても良いし、むしろ厳しい自然環境ではない環境下で簡易にブリードされた飼育品としてどのような変化が起きるのか一定の興味は見つかる。まぁ完全な野外個体群との比較作業が必須になるわけだが。やはり飼育品はどこまでいっても飼育品、人の手が加わったものに資料性を求めるのは、人為下である事が踏まえられてなければならない。各分類群の純粋な系統(遺伝学でのハプロタイプにおける"純系"とは異なるが)は自然界にしかいない。ノンフィクションとフィクションは、人間の思想中では混ざり合うため区別が出来ないが本質的には異なる。色々遺伝子汚染されたような個体を調べても何も面白くない。ただただ作った人達の倫理観の軽薄さを無駄なコストを消費して確かめるなんて何の応用性も公益性も無い。分かりきっている事を深掘りするなど阿保らしいにも程がある。

 とはいえ誤同定を始めとする誤認は、そう軽く考えて良いものでも無い。例えば世界的に見ればそういう無頓着な思考が普通な人々は多いが、もし毒物を扱うとなった時どういう意識を向けるか、もし危険物を扱うとなったら、もし毒性のある生物を触る時に人はどういう対応をするかである。教訓を持っていれば人として当然の忌避行為、注意意識の集中を即座に行う。近年大量の死者を出したコロナ騒動は武漢ウイルス研究所からの流出がほぼ確実だろうが理論上では自然発生という可能性を否定する事は出来ない。様々な状況証拠を鑑みれば、武漢ウイルス研究所の研究員がたまたま作ったウイルスが偶然凶悪で、特に危機に対して無思考なお国柄らしく研究所員の癖に不注意で感染したのだろうとの見方が最もありうる。そして中国共産党は、この那由多の可能性の中で最も薄い自然発生という可能性がありうる為に、決して責任を取ろうとはしないのだ。

 こういう風に誤同定という教訓に対しては、標本を観る時ならば様々な葛藤を抱えざるを得ない訳だが、本来ならば同定の前提となる分類学がまとまっていなくてはならなかったと考えられる。本来ならば採集者等の観察者が種同定出来る時代にならなければ分類学が達成されているとは言えない(思考停止が癖の無関係な人達に対する配慮なんて二の次三の次でどうでも良い)。だから、自然界での採集に大義があるし、行政指導を伴わない放虫などによる遺伝子汚染は咎められて然るべきなのであり、また論文は誤った前提で書かれてはならない。自分たちの甘さを許す為では無く、そういう教訓の為に、先人達の誤同定ラベルは注意喚起の資料として残しておこうという訳である。

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(ネパール〜インド北部のアーチェルニセヒラタクワガタ。古い標本は中型サイズの個体ばかりであったため、画像中にあるような顎がスラリと伸びる個体を日本人として初めて見た人物は、其の個体を新種と見間違えたという逸話がある。また第一発見者に関する裏話もある。)

【追記】

 私は人生経験上、他人の誰の言う事よりも物理証拠・現象証拠に従えという方針で此の情報収集を道楽として楽しんでいる。考察のために虫を観るのが楽しみで、同定は其の前段階で必要だからやるし、同定作業にも生物学的な考察も必要になってきて面白い。

 ブログの結論に至るまで25年間引っ切り無しにこのクワガタというテーマを考えてきた。しかしこんなに簡単な結論を出すのに25年もかかったのかと振り返れば、識別を目的としている筈の論文や図鑑が殆ど役に立たっていなかったからだと明瞭に説明できてしまう(物的証拠がありすぎる)。なので不都合な情報というのもなるべく考慮しバイアスがかかりにくいようにしている(そもそも人間はバイアスにかかりっぱなし)。あるテーマに対し焦点を当てて考えた場合ではバイアスを無くす事は不可能に近いが、引っかからないように、また間違いに偏り過ぎないように気をつける事は出来る。一部の人文系学者らは快不快など曖昧なバイアス要素で色々科学的判断するらしいが(苦笑)

正常性バイアス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E6%80%A7%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9

「フィルターバブル」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB

マーフィーの法則

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

「バター猫のパラドックス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%8C%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 誤同定についても世間では誰がどうしたこうしたとかが話題になりやすいのは、やはり大衆がスキャンダル好きなだけという下賤な印象がある。私は学名や、その意義については応用必要性の為に利用しているだけなので、雑多な標本とコンタミしてはならないホロタイプなどタイプ標本群や論文に使用されたと定義された標本群以外は、誰が同定したかなんてどうだって良い。大切なのは考察の精度と其の前提となるクオリティである。

私は自分の無知を、そう酷く恥ずかしがらず、分からない事については、全然私には分からないと白状するべきである。

(ジャン・アンリ・ファーブル)