クワガタムシ科(Lucanidae)についての調査記録など

目的はverificationismに基づく原典検証・情報整理・批評説明。なお非営利・完全匿名を前提としています。

【論考】「誤同定を促す行為」が研究不正である事についての検証

 「え?比較無しに識別を?できらあ!」という、どんな場所でも、まさかあの人がそんな事をするなんて信じられない事が起きるこの時代この社会、一見便利なようで不便な事にありとあらゆる誤認で溢れている。種記載論文で理想的な体裁の出版があっても誰も真似しようとせずに曖昧な表現の論文で出してくる著者が止まらないのはいつの世も変わらない。水は低きに流れるように。メンデルによる「遺伝の法則」発見以前で時が止まったような概念で生物種分類をしている人達は沢山いる。

 予断、主観、教条主義、其れ等がインターネットで溢れているのは、発信当事者が其れを当人にとって最善と考えて発信したくて発信しているのでどうしようも無い。だが其れを全肯定するのは我々をインターネットやPC機器無しでは生きていけないようにしている呪いに近しいと気付いても損は無い。分類学で似たような事を考えれば、生物学での上流知識となる種概念に嘘を混ぜる事はどのような事なのか、今回はそういう事に焦点を当てた記事。

 昔、貧乏学生だった頃に「私はクワガタとかが好きで分類を趣味でやっています。」と、応用生物学分野や物理学など理科学系の全く別分野で活躍する科学者に話す機会が多々あった。ネット上の情報も少なく論文も入手しづらい。とにかく情報に飢えていた時代である。全く別分野でも認識や考え方の交換は有意義であった。だが、そういう話をすると「いや〜全然分かりません。教えて下さい。」という人や、苦虫を噛んだような顔で「ああ、分類学ね。。」と暗い顔をされる人が少なからずおられた。「採集の神様」と呼ばれ、クワガタ・カブトムシの業界でも大活躍した大御所のMさんも「分類学はサイエンスとは言えません」というコメントを付した直筆の手紙を私にくれた(今でも大切に保管している)。普段から一般的に同定がされ、識別され、学名が使用されていた其の当時の社会で、自然科学知識人界隈の巨人達、超重鎮達からの非常に違和感のあるリアクションであった。聞いてみれば不満を色々教えてもらえる。どういう意味なのか私も学生だった当時は詳しく分からなかったが、今なら其の真意が汲み取れる。種記載論文が方法論的にも倫理的にもサイエンスの域に達した公表が殆ど無く一般的利益として安定した価値を持っていないという意味と考えれば全くごもっともである。偉人達から本音の感想が聞けるのは学生の特権だったのかもしれないが、科学者というのは本来ならば「大自然の神々(人間が想像するようなものではなく物理法則の構成などを示す)」を代弁する神官のような存在であると聞いていたので、不満を傾聴して損は全く無かった。当ブログでアレコレと問題視するトピックは、殆ど其れ等代弁を踏まえていると言って良い。

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(まぁ、とは言っても分類学が大混乱状態で進んでいなくても、実際には誤同定が絶対にされてはいけないモデル生物等の系統群については相当厳しい視線が集まっていて、大抵の人は関係が薄い他分類群には用が無いから問題視されにくい。分類学の混乱が一番影響するのは保全や規制、ライフライン、インフラの部分なのかもしれない。判別出来ないとつまらないのだから趣向からの視点でも分類混乱はデメリットがある。)

 もちろん、クワガタ屋で正確な同定方法を知る人物もいる。「何故、彼らは変異検証しないのか」「何故、ホロタイプを観ないのか」「何故、生物種の隔離の根拠が示されないのか」「何故、近縁種との包括的比較観察に乏しいのか("コントロール"という用語理解の欠乏への懸念)」「何故、実物を見ないでデフォルメの可能性がある絵や模型を参考にするのか」「なぜ出自や由来の不明瞭で怪しげな資料を根拠にするのか」「何故、しっかりとした考えをしていないのか」という話題が始まりであった(其方の方向での検証については他記事参照)。

https://twitter.com/rex_toyo/status/1428921538619740164?s=21

 大体「他人から買った」としか分からない死骸について信頼性を担保するのは人間ではない自然界である。iNaturalistのデータなど追跡していれば、如何なるものかも何となく分かってくる。

 昔話だが「この辺の奴は産地によりで確かに雰囲気が違うような気がするけど、どれだけ頑張って見比べても地域変異程度で新顔として書けないよ」と、とある産地個体群についてコメントされた、世界のカブトムシ大図鑑執筆をはじめた頃の故・永井信二氏の話をふと思い出す。後年に間抜けな体裁で記載されてしまい調べてみて、個人として評判の賛否があれど氏の言葉が是々非々では重い事もあると知った。生活の為に論文を書く人は職業システム上で必然的にいるが、その中で見分けにくい善悪其々のグループに分かれているという事を知っておいて損は無い。とにかく競争の激しい世の中で結果が全ての世界なのだから論文で嘘を書かないように気をつけなければ人生が反科学に埋め尽くされて詰む。

 前回の記事で、誤同定は溢れているが其れも資料であるとは書いた。誤同定は誰しもやってしまう。是非も無い。しかし誤同定を教訓や戒めとするならば「誤同定を促すような行為」は諫めされて然りであるし、もし金銭を受け取りながらの研究の一環で誤った事を論文に書けば研究不正と其れに対応するペナルティが与えられる可能性も出てくる(後述)。とはいえ、誤同定を諌められたから気分をわるくして辞めてしまうなどは勿体無い。また科学的に考えて未記載種に気付かない事は勿体無くはあったとして不正研究では無い。誤同定を豪快にやっても偉そうにふんぞり返っている人間は一杯いるし、そういう人の中にも誤同定そのものではなく、誤同定者を対人論証的に糾弾する人が少ないからずいる。だがそういう糾弾者らの態度もまた糾弾され、結局は認知の悪循環に嵌っていく。誤同定は誤同定なのだから其れ以上言っても仕方ないし、やはり正確な同定ほど精神衛生上良いものは無い。

 能力が其々千差万別のアマチュア勢力による誤同定は普遍的であり、私の経験上むしろ良い同定をする事も研究者よりアマチュアの方が多い。それは査読などクローズドな遣り取りでは必要以上に持ち出されうる「正しい同定」方法が一般的に周知されていない、誤った周知に対して適切な対抗策を周知されていないから是非も無い。自然現象に変異は絶対的にあるし、根拠の観察により考察は導き出される。そんな当然の事も一般的には知らぬが仏か、互いに揚げ足取りばかりしている人達が学術知識に寄生している。

 だが、じゃあ研究をやっているであろう人達の中に、なぜ誤同定を促すような事をする人がいるのか。なぜ知らぬ存ぜぬ顔でエコーチェンバーありきのツイッター廃人をやっているのか。

 まぁツイッターで大言壮語する人が多いのは無知が原因か、MITによる研究結果で分かるようにSNSを悪用しての事と分かる(以下URL)。インパクトファクターで反響を得たいならデマ拡散が最もお手軽な方法である。無意味且つデマのイデオロギー思想活動、出典検証にも乏しい公開討論はSNSに限らずどこでも暴言罵詈雑言が飛び交い見ていて気分がドス黒くなる。

フェイクニュースは速く広く伝わる
Nature ダイジェスト Vol. 15 No. 5 | doi : 10.1038/ndigest.2018.180507

原文:Nature (2018-03-08) | doi: 10.1038/d41586-018-02934-x |

https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v15/n5/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AF%E9%80%9F%E3%81%8F%E5%BA%83%E3%81%8F%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8B/92004

 過去、応用生物学界のある学者の公演を聴く機会があった。彼の話は非常に平易明快であり面白かったが、科学界の堕落について、また其の原因として資金不足を挙げ、政府に対する不満を滲み出していた。

 だが、政府は不正研究に関わるコンプライアンス概念を公開している。読んでみれば当然の事しか書かれていない。

https://www.mext.go.jp/a_menu/kansa/houkoku/1350200.htm

 要は結果が全てだと書いてある。不正研究防止という大義からの監視は必要以上に研究者らの時間を奪い、また疲弊させるような方向性ではあるが、肝心な事は苦労の結果が実りのある事なのか、其れが国民の理解を得られるものなのかという事である。自然科学への興味、追究は大義が明確化されなくては「科学者も国民」という理解を得られにくくなる。

https://news.yahoo.co.jp/articles/90b72a6f6b1cffa8fb1d1e7ad25938fb21d1cb7f

 だが自称生物学研究者の中から思考意識が科学者らしくない人もしばしば露出する。とにかくコストをかける事に大義があるかのように言ってしまう人達。必要以上にコスト削減してマトモな結果を得られない系でコストパフォーマンスが良い事をアピールしてしまう人達。どちらも大成する器には見えない二極で迷惑な話である。「誰がこんな詐欺師みたいな事を言う人達にカンパなんてするんだろう」みたいな意見を集めるような態度はやめて欲しい。資金提供をしてくれる如何なるパトロンも我々の都合にではなくパトロン自身の意思に従って活動される。黙って真面目にやっている人達の方が高品質の結果を出しているから、SNSで見るような軽口ばかりな人達に目を向けるのは億劫になる。良い結果を出せる人達は乞食の振りなんかして足を引っ張るような真似はしない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%9C%92%E6%B3%B0%E5%BE%B3

 まぁたしかに、これまでの歴史上では多大なコストをかけて沢山の知見を残されてきている。しかし其れにも限界はあるし、今や低コスト化が十分進んで庶民の一部でも嗜める程度には落ち着いているし、科学的に考えると面倒臭い事に何度もぶつかる。経年の長い標本であるとデータの正確性に懸念が生じる場合が多々ある。私の手元にも"India"とデータラベルに記述されたフィリピン特産種の古いクワガタ個体があるが、これは採集当時にフィリピンが広大なエリアであった「東インド諸島」に含まれて認識されていた19世紀の個体であった為にそう記述されていると歴史的知見から分かる。だが詳細産地名称については現地からの発音にそのままアルファベットスペルを当て字しただけで検索しても分からない。今の時代ならば其の標本を観察して「今フィリピンにしかいない虫が昔はインドにもいたんだ!」と勘違いする人が出かねない。

 また、誤データラベルに関しては、インセクトフェアなどでもチラホラ見た事も聞いた事も無いような売り物に出会す事がある。それがたまたま知らなかった種ならば幸運かもしれないが、誤データ個体の方が確率は高い。私が出会った事がある例を挙げるとアフリカ大陸ナイジェリア産ラベルのヨーロッパルリクワガタ、京都府産ラベルのオキナワノコギリクワガタなどで、すぐに質問形式で指摘したが、オキナワノコの売り手はなんだか分かっていない感じで私が青褪めるだけで終わってしまった。またどう見てもマレー半島スマトラ産の雲南省ラベルのセアカフタマタクワガタ(光沢と中間内歯位置で分かる)などをSNSで見た事がある。

 つまり、こういう例が随所で無いか確認する為にも新しい標本を現地で採集する事に義が生まれるという訳でもある。しかし、そんな当記事で解決してしまうような事にチマチマ大コストをかけるのを良しとする国民は少なかろうとも思える。危険でも無い産地ならば現地国家や原産地付近の研究所を少額で支援する程度で済むしデータの信頼性もそっちの方が高いと言われてしまって終了する。それならば伸び代が無限大にある他分野に投資した方が良い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%B8%E5%B3%B6

 私は外国でのクローズドな場でノーベル賞受賞者の公演も聞いた事があるが、其の中で「過去の偉人も失敗したんだから学生の皆さんも沢山失敗して学んで下さい」と聞いた。日本でも偶に聞くフレーズである。だがこれは失敗を自覚するか、させる要素と、そういう事をやっても生活していけるような要素が揃っている条件下でのみ有効な試行錯誤である。貧しい普通の学者は出来ない。何をやっているか分からない研究を若い人にさせてはならない。

 学生の頃、理系の研究者が非常にリッチな雰囲気という印象で分野に入ってきた同期を沢山見た。だが現実を見るべきである。そんな未来は来ない。皆リッチになりたくて足掻いているのに雑に欲しがるばかりの人間に牌は回ってこない。金銭など関係なく研究が好きならば謙虚に研究した方が絶対に良い。

 2014年、生物学で「STAP事件」という研究不正の象徴的な事件が起こった。あの研究室の物の少なさに注目する人達は多かったが、よく見ればセキュリティがガバガバだったという点も注目だった。自死したとされる笹井氏は遺書で小保方氏に対し「絶対、STAP細胞を再現してください」と書いていたそうだが、あれだけ批判を浴びたあとに時間もかからず出てくる科学者の言とは思えない違和感がある。たしかにかなりショックだったろうが他にも沢山実績があったのだから死ぬほどでは無い。STAP現象は本当ではなかったかもしれないと思い直して自身で確認しようとするのが科学者である。笹井氏が非常に優秀な科学者だったと考えると、こんなに科学に無理解でポエミーな言葉を遺言にするとは考えにくい。遺書は印字によるものだったようだが、一部に別人が書いた物が混じっていたりなどしなかったとは言い切れないのではないだろうか。NHKなどによる必要以上のバッシング報道も違和感が凄かった。無理解で神輿担いでおいて、ああまでやるのがマスコミなのかと。氏の死因について私は訝しむ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E4%BA%95%E8%8A%B3%E6%A8%B9

NHKの不祥事リスト↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E3%81%AE%E4%B8%8D%E7%A5%A5%E4%BA%8B

 サイエンスでの研究不正とは何なのか。其れを知らずに無能な研究者を信奉したり、バッシングに忙しい一般人も少なからずいる。

定義

 ランセット誌では以下の定義が紹介されている。

デンマーク の定義:科学的メッセージの改竄や歪曲をもたらす故意または重大な過失。科学者に誤った信用や注目が与えられること
スウェーデンの定義:データの捏造による意図的な研究プロセスの歪曲。他の研究者の原稿や出版物からのデータ、文章、仮説、方法の盗用。その他の方法での研究プロセスの歪曲。

再現性の問題
 データの再現性は、厳密には研究不正とは別個の概念とされる。混同することを戒める書籍も存在する。

一方、捏造や改竄がなされたデータに再現性があることは原理的に考えにくい。また、再現性の有無は、研究不正がもたらした実害を決めるものである。そのため、実験科学において研究不正の疑惑が発覚した場合、再現性の問題は必然的に強い関心を呼ぶ

2015年の衆議院において、文部科学省政務官は、研究不正の調査に再実験が含まれる場合があることを言及した。

要因

 ドナルド・クレッシーによると、組織が絡んだ犯罪は、「機会(実行を可能にする機会・手段)」「動機(実行に至った事情)」「正当化(自らを納得させる理由付け)」 の3つの要素が満たされた時に起こるとされる。このうち動機については、研究不正の場合、「publish or perish」と呼ばれる研究者の過酷な競争に原因があるとする見方がある。また、製薬企業等の特定の組織から研究費を受け取るようないわゆる利益相反が存在する場合、研究者はその特定の組織が有利になるような論文を発表する傾向があると言われている。

巻き込まれた時の対処

 弱い立場の大学院生やポストドクターが研究不正に巻き込まれると、過失がなくても多大な損害を受ける。もっとも直接的な影響は、他人と共同作業を行うことへの不信感や科学全般への絶望といった心理的なダメージであると言われる。政府や大学は、巻き込まれた大学院生やポストドクターに対する手当は用意していない。周辺の教員が個々に対応している状況である。科学技術振興機構は、The Labという研究不正に巻き込まれることを疑似体験できる米国の教材において、どのような選択肢を選んでも大学院生にはハッピーエンドがないことを認めている。仮に所属研究室の不正に気付いた場合は、研究室の運命を左右する問題を一人で背負うことは危険であるので、研究不正行為が行われている場から離れた後に信頼できる機関に情報提供することが望ましいとされる。純粋な被害者であっても、加害者の濡れ衣を着させられる可能性はある。データを捏造する人間が無実の罪を捏造しない保証はない。

Wikipedia「科学における不正行為」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%B8%8D%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E7%82%BAより引用抜粋)

 即ち、直接的にはボランティアの関わりとはいえ一部査読者の高圧的態度が、特定集団のヘゲモニー由来である可能性も考えられてしまう。

 さて、これらの説明で科学とは何なのかボンヤリ分かっていなかった人達にも「誤同定」は科学的には正しく無い行為、即ち科学における不正行為であると、なんとなく理解されたと考える。学会などの小発表ならば多少の過失は許されるだろうが、論文でどこからどう観ても誤っている生物分類群の判別法を書いたり、資金を貰いながら論文で誤同定をやったり、科学者の肩書きの元其れを頒布したりする行為は第三者にとって非常に迷惑な行為と言える。其れ等はいずれも誤同定を大衆に促す行為であり、相応のペナルティがあって漸く健全である。一般人ほか芸術家などがするならば表現の自由なので、何も気付かず、或いは、ある程度は「誤った理解」を武器に題材としてアンチサイエンスという立場からの社会風刺をする事もあろう(公式の誤認拡散が嫌なのは私も理解する部分がある)が、だからと言って「誰よりも間違わない方法を知っているから学者の職を担わせもらっている」科学者が闇雲にやる事では無い。

 ただし標本や生体に学名や汎用されている和名を付けて金銭的関わりがある場合は、誤同定が詐欺罪や景品表示法違反に抵触する恐れがあるので注意しておくに越した事は無い。生体については標本検証が正確に出来ていれば同定に困る事は少ないと考えられる。まぁ公式的に安定した情報の提供が無いのだから責任の殆どはやっぱり駄目な論文著者や庶民への関心が薄い学術界にあると言えもするし、そもそも業界が緩々故に誤同定がありふれた社会で数点の売り物の誤同定に注目するなんてあまり無いが、とはいえ相場誤認で公的な損がありうるからリスクはある(オークションでたった2〜3人が競り上げた値段が正解な訳ない等もある)。学術界に世間の誤認を止める力が期待出来ない場合は、コンタミ防止や乱獲防止の大義が生まれ流通規制も視野に入ってきてしまう。関わるお役人にとって規制を作る実績は出世の機会になるのだから、そうなって欲しくないのなら馬鹿な事やってないで「規制は不要」と言えるくらいに緊張感があった方が良い。

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8D%E7%A7%91%E5%AD%A6-1197411

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(検証が難しかったピケイペンニスノコギリクワガタ。結論を出すまでに苦労は付き物。犠牲なくして勝利無しとはよく言ったもの)

 纏めると、①出版物で誤同定をするのはヤバい、②それ以外でも迷惑行為になるからまぁまぁヤバい、③また其れ等を促す行為はまた別の意味でヤバい、という話である。

【追記】

 記事で色々ごちゃごちゃ書いているのは、世間一般の「誤同定」概念そのものが誤同定されている懸念を示している。私も例に漏れず、誤同定の事を頭に理解しきれてはいない。しかし、客観的に社会を見ていると、なるほどソレか、と言うのが見えてくる。

 当ブログ他記事を読んで分かるように生物種分類でも、不確定な議論や根拠で誤同定を有耶無耶にしようとする人は必ずいる。ありえない事だが昨日新しく発生した集団が未知の種だったとして新種発表されるリスクも理論上では止められない。再現性が問われて終わるだけだが。

 既知知見をよく勉強すべきだなぁと今回の記事を書いていて改めて考える。私自身も一層肝に命じる所存である。

 科学研究というのは中世ではリッチな人にしかできなかったような行いであり先人からすれば今は贅沢な時代。経済的に娯楽が難しいなんて贅沢な悩みである。我々の時代、我々の住める地域、我々の生活が、どれだけ大変な暗闇の時代を歩まれてきて成り立っているか、どれだけの先人達の犠牲の上で確立しているか、そういう意識も忘れるべきではない。

何か困った場面に出会ったとき、むやみに誰かの助けを借りようと思ってはいけない。助けを借りれば、それはいっとき困難から逃げただけに過ぎない

忍耐と熟考を持って困難に当たっていけば、そのたびに成長することができる

(ジャン・アンリ・ファーブル)