クワガタムシ科(Lucanidae)についての調査記録など

目的はverificationismに基づく原典検証・情報整理・批評説明。なお非営利・完全匿名を前提としています。

【論考】ABS問題 VS 生き物業界

 新種記載というのは昔から憧れられやすい。特に人気のある生物だと競争も激しい。そして今代は国内など近場での新種発見の可能性はなくなりつつある(ネタ切れという意味)から国外へと目を向けざるを得ない人もいる。そして問題になっているのがABS問題である。ここで示す"ABS"とはAccess to genetic resources and Benefit Sharing(遺伝資源の利用から生じた利益の公正で衡平な配分)の略称(以下URLに詳細)。しかし、この話題が出てくるのは論文の査読時くらいで、他では不気味なくらい話題にならない。この現状からは、むしろSNS等が原因で規制が捗るならば学術界の責任が問われにくくなる為、其れを迎合している派閥があるという節すら読み取れる。だから知らない人達の為に用意した記事(論文を読んでいてもコンプライアンス関連に疎い著者が多そうとも見える)。ABS問題そのものが問題にならなくとも、同じ方向性でのいざこざはあるから無視できない問題である。

https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/3408.html

 たしかに、例えば自国の新種発見が自国・原産国人による実績が少ない状態で、外国の人間に勝手に自国の新種や種記載を書かれるのは嫌、と言う人もいて普通な話である(まるで内政干渉のような)。日本ならば離島の採集でも似たトラブルがなくはない。しかし残念な事に大抵の国家には盤石な研究機関が無く、結局は先進国の研究に打ち勝つ事が出来ない。つまり規制しないとドンドンと自分の庭からネタが奪われてしまうという難しい状態になるから科学的な大義が生じて規制される訳である。

 そして粗悪な論文ほど生産率が高い事が事態を更に深刻にする。原産国人以外の論文でも良い体裁で書かれたような、原産国人が悪い商売人以外の誰も困らないような論文ならば科学的にも倫理的にもセーフティが保たれて、そこまで資料価値の流出を忌避されないかもしれない(研究方法などを現地研究者が参考に出来やすいメリットがある)。しかし外国人にまるでビジネス目的の無闇矢鱈な体裁で記載されると、応用する報文などで参照しづらくなり、原産国の人々にとってはトバッチリの手間を取らされる事になる訳である(ホロタイプ観察や再記載等)。逆に日本やヨーロッパ等の出版社関係からすれば死活問題で難しい状態である。まぁ昔から殆どの出版社の考えというのは全能感に溺れたような感覚だったろうので今はキツい報いを受けているという状況なのかもしれない。論文著者も出版社も責任は重くある。

 ビジネス本意な要素が勝った分類学ならば不健全そのものにしかならない。だからこれまでも古株の標本商達もアマチュア分類屋達も大コレクター達も、あまり口にはしないため目立たないが其の一線を越えないよう思慮深く活動してきた。だが今は其れらも御破産の時代である。近年は地域変異としか思えない集団の個体群を"種分類"し値段を釣り上げる「スプラッター」と呼ばれる著者らが堂々沢山いる。スプラッターの特徴は「悪足掻き」である。彼ら自身のラインナップに入る分類群に付き纏う疑念を誤魔化すが如く、彼らは手に出来ない分類群をこき下ろす。標本を新分類というキャッチフレーズを使い高額で販売してしまった手前シノニムになると顰蹙を買うので其の状況になるのを頑張って避けようと言葉巧みに必死になるのだ(私もまんまと買ってしまった事があり自戒の標本としている)。しかし口ばかり回る割に疑惑のある分類群学名ほど現地調査や累代検証などの客観的に見て信頼性を得られるような根源的調査で汚名返上をしようとは決してしないのが彼らの特徴だ(保留という方向性すら示さないのも紳士的では無い)。遺伝子や微妙な外形差異のみ、或いは変異幅の不正確な検証で分類される集団は根源的な検証が避けられていると言えるため同定の容易さや再現性が低い。私は売人の立場に無いため気兼ねなくそういう事が書ける(標本商の場合だとどれだけ真面目でも人間関係に遠慮して言えない人が多い)。また、単純にリクルート等の手段を目的にして論文を書く輩も杜撰な論文を書く。

 だから嘘が記載論文になっているというのは、其れが客観的に見破りにくい場合は深刻に由々しき事態である。生物分類学はあまり考えずに論文を書くという風潮が多数派的であるため、思慮を嫌う人々からも人気になってしまっている分野である。研究費の配分が少ないのは、まぁ今の時代だとマイナー需要という事の他に、そういう思慮に欠いた結果(SNSでの無意味な投稿等)や、配分を決める責任者にとって理解出来ない論文が多い事に起因している(私はそういう責任者の人から直接話を聞いた事がある)。やはり社会的な軽薄さは理解の重大な壁となってしまう。この難しさは昔とは違い、残念ながら現在の科学界では常識中の常識で最早変えようが無いのだが、今の状態で放置されてしまうと資金を信頼で得られる他分野からすれば「(いや〜馬鹿な論文自晒しで勝手に自爆してくれてそっちの信頼を落としてくれてありがとうね知らんけど)」という本心からの皮肉と感謝が生じてしまうので危ないとも考えられる。

 其の馬鹿さ加減はSNSや論文で公表されているのだからもう政府サイドにはバレバレである。法律上や社会通念を優先しているため政府は口出しせずに黙っているし場合により税金を研究サイドに割かなくてよくなる大義が出来るので都合が良く、だから幾らでも先延ばしして放置される。こういう事について政府に対する不信が多少なり私にもあるが、法律上では紳士的態度を取っているのはどちらかと言うと政府側であるから、やはり現実的に重い責任は研究者側にあるとの結論になる(政治家は選挙期間中以外は嫌われても全然問題が無い)。だから、普段から論文の数稼ぎで低クオリティな公表をしている著者研究者らがSNSで税金クレクレ乞食活動をしていたり、威嚇めいたツイートをしていたり、私も問題視している「森林伐採や開発」の批判に便乗してきたりするのを見るとビックリする。普段から不信を集めているオオカミ少年みたいな人間がいきなり正論を言ってきても、逆にその論自体に疑いがあるかもしれない、という方向の視線が生じてしまうなんて考えに及ばないとは思えない。だからそういうのを見る度に「一体、何の味方をしているのか?」と憤怒を込めて言いたくなる。政府内部の事はよく知らないが「あ〜、あの学者が言ってる事だから眉唾だって事かもよ。話半分で聞いとけば済む済む。」という方向性の議論が生じていないとは言い切れないし、むしろ想像に難くない。政治家は其方の道の専門家じゃないから自国民の多数派に許される限りどんな類推も許されてしまう。悪い学者、政府に反抗的な学者らは、むしろ悪いお役人にとって利害が合うから都合が良い存在である。

 唐突の想起話だが「BEYOND: Two Souls」というRPGゲームを実況するYouTube動画があり、私が標本作成のついでに鑑賞していた時に覚えた話である。私的な目的の為に全ての元凶となった人物(※敵)が終盤で主人公に全てを押し付けて成仏?するシーンがあるのだが、それがまるで味方だったかのような態度で去っていくからそれはもうズッコケが凄まじかった。そういう馬鹿シナリオが公式の場で罷り通っているのである。

https://m.youtube.com/watch?v=mQSFCA-inYk&list=PL1Z1KdfmKueYjaY5z05mkswnU8X2ZxKnQ&index=15

交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が有能ならば何一つ与えず返せ。
交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能ならば大いに与え、歓待せよ。
そうすれば、隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する。
そしてやがては滅ぶ

中国の兵法書六韜」より

 間違った思考で記載されると後の参照者が困るし伝聞も上手く行かなくなる。どれだけ取り繕っても完璧でなければ穿った目線が集まる事は止められない。まさに分類学ソーカル事件の再来が"急襲的"・"常習的"と言って良いのかもしれないが、やはりelife誌等による出版後査読システム複数の査読者同士に議論させる査読システムというのが、これから対策として他でも採用される事が予感される(論文の精度が上がるので其れに伴いインパクトファクター値も其方の方が上がりつつあるとか)。査読者と著者では其々立場が異なり、イデオロギーを内包した無意味な議論を展開する人達が少なくない。分類学分野のみならず、こういう問題は多岐に渡り散見される(※フォーマルな英語には使ってはいけない文法というのがあるようなのだが、使う人が堂々沢山いる。著者でも査読者でも言語を使うという条件は変わらない。日本国内で日本人向けに英語だらけの英語解説をする人間などは本当に無意味で害悪である。出羽守は不要。郷に入っては郷に従え。先ずは使用しても良い文法の条件を"平易明快に"理解出来なくてはならない。)

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(モンギロンホソアカクワガタ:Cyclommatus monguilloni Lacroix, 1981は基産地をイリアンジャヤ・ファクファクとされる。※現時点でインペラトール種との種間関係は私も未検証。タイプ標本は2♂で、記載時期の時代考証や近縁種との差異を考えれば分類群の実在については信頼性がある。しかし原記載以降ファクファクでモンギロンホソアカクワガタが採集されたという確実な記録が無く、また現地人が探しきれず困ったという話がある。採集者はいずれも記載者に関連が近しいと考えられるヨーロッパ内で活動をしていた人間の名前が連ねられているhttp://www.bio-nica.info/Lucanidae/Cyclommatus%20imperator.htm。この場合、タイプが2頭でも御仲間の談合でデータをインサイダー的に改竄された可能性や商売人の情報を鵜呑みにした可能性を否定出来ない。データ改竄や加工標本による"でっち上げ記載"は悪い商売人以外には極めて迷惑な話である。当分類群のタイプ標本は行方が分かっていない。そして、他産地の個体群を分類可能かもしれないとされているが、タイプの産地では無いため基準形態が分からず比較しなければならない標本が無いという状況のおかげでマトモな分類に進められない。)

 昔はよく希少種が規制されやすい状況はあったが、最近では中国などで普通種が規制されつつあるという不思議な光景もあるから難しい。また、昨今のネット社会の構築に伴い、場合により論文だけではなくSNS投稿も今後のレギュレーション改訂に影響する可能性があるとも考えられる。

 科学知識を扱う業界は緩衝になるような人為的セーフティがあまり無い。昔なら今のように大量の情報が出てこなかったので、ゆるやかな時間の流れが情報による影響の緩衝を成り行きに任せて行ってきた。だから今代は余計に世界中で規制が流行る訳なのである。得する分しっかり損しているのだ。

 現行のデータベースで、私が利用しづらいと感じているように、原産地国家の利用者らも利用しづらいと感じている可能性は高い。だから今やるべきなのはSNSで必要以上に宣伝する事ではなくて、そういう要求されうる問題解消に全力投球する事と分かるのである。そういう意味でも今のご時世軽薄な気分での記載はしない方が賢明であると言えてしまうのだ。

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(インド・ダージリンのサンダースマルバネクワガタ:Neolucanus saundersii Parry,1864と、インド・ナガヒルの"おそらく"サンダースマルバネクワガタ。ナガヒルの個体は故・Lacroix氏が現地採集家Sircar氏から受け取った個体とデータラベルから読み取れる。Sircar氏採集のデータなら信頼性は高い。ナガヒルでは希少だが他でも見つかっているという話はある。また科学的知見に貢献した事が評価された為か、Sircar氏一家からの国外輸出はインド側で咎められる事は全くなかったと云われる。ナガヒルの個体を私に売ってくれた店主はLacroix氏の旧友で自然界生物への造詣が深く、昨今の人工的に弄りまわされた産業用品種には良い印象が無いとも云われる。)

【Refarences】

Lacroix, J.P. 1981. Description d'un Cyclommatus nouveau de la faune néo-guinéenne. Bulletin de la Société Sciences Nat 29-30:55-56.

Parry, F.J.S. 1864. A catalogue of lucanoid Coleoptera; with illustrations and descriptions of various new and interesting species. Transactions of the Entomological Society of London (3)2:1-113.

【追記】

 なお当ブログ他記事で多数の種記載論文を原典批判してきた。それを踏まえて考えると世の中にはどれだけ頭が出来上がっていない状態で社会に出てきている人が多いのかという現実的問題を理解出来る。まぁ教育システムが杜撰なマニュアルで出来ているので仕方ないとも言えてしまうのだが。。当ブログ記事を読んで思わず卑屈になったり更なる狡い考えをしてしまった人の未来は全く分からないので慎重になって、ネット弁慶みたいになったりしないように注意されたい。急いて突っ走り威張りたい気持ちも分かる。しかしよく勉強した方が後が楽しい。出来ないならば出来るように準備するしか選択肢が無い。私の見立てからして圧倒的なコレクションや正論述に立ち向かっても耐えられる力が無い人は、この科学業界でマトモに生き残る事が難しい。圧倒的な観察量と思慮というのは考えを固める上で必須であった。物理的現実化の不可能な思想、例えば共産主義的な思想が人類の役に立つ未来は絶対的に来ない(嘘や邪推塗れになってしまうため)。

 ネット弁慶とは、Web上のブログや電子掲示板などでは居丈高な調子を見せるが、実生活ではおとなしく、小心者であるような人物のことである。 ネット弁慶は「内弁慶」をもじったインターネットスラングである。 匿名性の強さ(本人特定の難しさ)がネット弁慶の主な拠り所である、と見る声がある。

ネット弁慶 - 用語検索 - ZDNet Japan」より引用

https://tech-camp.in/note/pickup/45932/

 読者の中にも理解する人がいるだろうが、論文を読んでもスッキリしなかったり、ネット上で知らない人達が外国の虫について内輪盛り上がりしていても何が面白いのか分からずスッキリしないという其の感覚は大切である。其の感覚は虫の原産国人も少なからず持っているからだ。

https://twitter.com/terrakei07/status/1475015183760502786?s=21

 どの派閥でも仲間内のみでの情報交換ばかりになると、どうしても思考に偏りが出やすい。昆虫界隈だけでは無く全体的にある問題である。公開でコミュニケーションしている人達も建前で話すので忌憚無く話しているように見えて必ずと言って良いくらいに嘘が混じっているのは裏で暴露話が回ってくるのでバレやすい(虚勢を張っていると自覚のある人は気をつけられたい)。いわゆるエコーチェンバーだが裏切り者は必ず出てくる(最初からそういう気の巧妙な人間もいる)。それに「何か公益的に役に立っているなら」良いかもしれないが、公開状態で半永久的に残る場所に何の配慮もなく「単なる自慢」を頻繁にされるのは、私個人的には放って置きたいところだが何処から来るか分からない反動や反発のトバッチリが怖い。またSNS外に自慢相手が殆どいなさそうとも察せてしまう。それに私的自慢を公開するのは内輪だけの考えで活動していきたいという利己的思考が滲み出てきているし、其のレベルまでの人格である事を自晒ししている。側から見れば「駄サイクル」というヤツである。だから誰がやろうと其れはスベっているので内輪な事は内輪だけでやって下さいという事が世間一般の社会通念となっている訳なのだ(昔から「能ある鷹は爪を隠す」と言うし自慢でしか己を保てない人は社会的に危ういと見られてきている)。

 駄サイクルとは、石黒正数著「ネムルバカ」の鯨井ルカの造語。 (主に創作活動において)「見る→褒める→作る→褒められる(以下ループ)という需要と供給が成立した自己顕示欲を満たすための完成された世界から抜け出そうとしない」自称アーチストの活動(笑)のことである。

「駄サイクル - ピクシブ百科事典」より引用

 問題化されやすい投稿は外国原産地の目にもとまりやすくなり規制がかかりやすくもなる。夜郎自大な態度の其れは利己的ハラスメントとすら認定されかねない時代なのである。

夜郎自大
 実は大したことがないのに、自分たちの力を誇って威い張ばること。

[解説] 字じ面づらから、夜中にうさんくさい野郎が何かするような感じがありますが、そうではありせん。「史記」のエピソードが元になったことばです。
 漢の武帝は、南部地域の南越国を征服しようとしていました。その手始めに、南越国に隣接する滇てん国や夜郎国に使いを送りました。
 漢からの使者に対し、滇国、夜郎国のそれぞれの王が尋ねました。
 「漢とわが国と、どちらが大きいのか」
 もちろん、漢のほうが強大なのに決まっています。滇王も夜郎王も、国外の事情について知らなすぎました。
 ここから、世間知らずで威張っている人々のことを「夜郎自大」(夜郎、自みずからを大となす)と言うようになりました。なぜか「滇自大」とは言いません。
 つまり、「井の中の蛙かわず」と同じです。ただ、「井の中の蛙」より「夜郎自大」のほうが指す人数が多い感じがあります。「夜郎自大的になりがちな国民性」のように使うとしっくりきます。

コトバンクより引用

 今はネットメディアの時代なのだから情報が即座に伝わりうる。虫の原産国人にとって其れが飼育品であったとしても天然個体であったとしても「話題にされる事」自体に対して法的に忌避する理由は前述した分だけで十分にある。原産国人以外の人間が其の「虫で遊ぶ理由の法的な正当化」は今代では難しいし、どんどん厳しくなっていき、最終的にはタイプ標本以外の古い個体での論文化すら規制されるかもしれない。殆どの愛好家は好きな虫を自分で決めたいから無駄な量の宣伝は不要であるし、なるだけ喧嘩や衝突が無いよう穏便になるよう活動している。そしてそういう人達は自慢する為では無く知識欲のために情報として資料を集めている人が多い。また長年やっているから持ちうる個体数も多い。この問題を理解できない人は規制されても事後諸葛亮みたいな態度を絶対的に取るような人だろうから私は其人がどうなろうが知った事では無いし、現在は私も規制賛成という立場に入りつつあるから自爆するなら御自由にどうぞと思う。だが少しでも理解出来た人達は幸運であり其人達自身を客観的に見つめ直し霊的に生まれ変わる事が出来る。

https://m.youtube.com/watch?v=oq6X0zhV0CA

 事後諸葛亮とは、事態がすべて手遅れになったあと、終わったあとに、さも状況を見越していたかのように「ああすればよかった、こうすればよかった」と訳知り顔で解説すること
 いかにも知者であるとふるまう様を、三国志の名参謀、諸葛亮になぞらえている。

「用語集 - numan」より

 私の懸念している事は、おそらく今なおネット上で「答え合わせ」の如く投稿されていると察する。しかし「公開意見している事」が其人の科学的信頼性を保証する事は無い。オーディエンスにも頭脳はあるのだから子供騙しみたいな投稿はされるべきではない。彼らの言い分は納得されるだけのエビデンスが無いし、むしろ反証の方がありうる。杜撰な思考を自晒ししているようにしか見えない。特に「学者」としての席に座り他の数多いる学者になれなかった人々を差し置いて出鱈目を大拡散するというのは返って悪虐非道と言える。良い仕事をする人は、わざわざ内輪盛り上がりを他人に見せないよう気をつける品性があるし、現実世界の人間関係で満足している人はわざわざ内輪盛り上がりを公開する必要性は無いのだから。私の類縁者や友人達に公開性の高いSNSをやっている人は殆どいないし忌避している人達の方が多かった。普通にやっていた人達も知らない人から過激なバッシングをかけられて萎縮してしまったらしく最近は脱SNSを考慮されつつある。しかしそうやって他人にはしっかり非難をするのに意見の違う人達からの非難を嫌う人達が多いのは興味深い(ミラーリングの思考が出来ないのだろうか)。近年のSNS界は現実の一般常識とはかけ離れた思想世界を呈している。

https://m.youtube.com/watch?v=JIQprK_AqTU

 何も知らない初心者がSNSを覗けば業界には大規模な互助会があって其の世界が当然の如く存在するかのような錯覚をさせられるが、実際に私の地域に近い即売会やらなんやらに出てみると古株のお爺さんが殆どで若いのは喰い気味に延々値切っているか尊大な態度で激安雑甲虫を買っていくかでメジャーな売れ行きや話題性には幻出された"宣伝"が反映されておらず嘘や虚像による演出である事が明々に分かる(むしろ無意味に激しくステマされる虫ほど敬遠忌避されている様子が現実であったのだが、、)。だから、今の状態では未だネット上に上がっている程度では種によりけりで規制なんて必要無いのだともここで言えるのだが、規制する側は規制する方向に都合の良いネタを選択するから悩ましい。

https://m.youtube.com/watch?v=CuvvvqUt2JA

(フィジーの希少昆虫ヘロスオオウスバカミキリと戯れる現地少年の動画。現地人でもない我々からの感想は「微笑ましい」という程度にしておくのが良く、羨ましがるのは欲が深過ぎる。)

良心とは私たちの内にある最も良いものがそこに集中される精緻な鏡である。

(ジャン・アンリ・ファーブル)