クワガタムシ科(Lucanidae)についての調査記録など

目的はverificationismに基づく原典検証・情報整理・批評説明。なお非営利・完全匿名を前提としています。

【陰陽道】無限後退と1歩前進の岐路

 別に新種記載しなくたって歴史に名が残らなかったって絶滅さえさせなければ生物は地球上の何処かにはいる。だが見つける前に絶滅されたら誰も出会う事が出来なくなる。

 分類学活動の最終目標は「自然界での未知種の生存」であるとも考えられる。過激な考え方で、こんなのは広大な生物の生息地を人間の魔の手から完全に守らなければ成し遂げられない。だからそういう事に気づきがあっても言いっぱなしの人しかいない。そういう思慮を行動に移している人間なんて、社会を生きていてもなかなか出会えず、ただ誰も見た事が無い生物種が滅していく想像をして辛い気分が止まらなくなる。人間が生活する為には自然を食い散らかすしか無い。とにかく今は人類に残された行動的な良心に賭けるしか無い。

https://m.youtube.com/watch?v=TknLsUY86mA

 だが未知種の保護を訴えるには「未知種」とは何なのかという理解を先ずは得なくてはならない(ボンヤリとした思想で否定的に見る人に其れを期待する事は出来ないが)。結局のところ未記載種を含めて、この言葉の意味を正確に使用して事務手続きする事を拒むように「ああ未知種ね。記載されてないだけで俗称はあるよね。」という表現が目立ち、未知種群の中にいる今にも消えそうな、誰も見た事が無い希少生物種が人々に気付かれる確率はますます減少する。

 野生生物がどんどん減っている。そりゃそうだ。金儲けばかりに必死な勢力からすれば、環境破壊で普遍的に見られた生物種が減れば値段を上げる意味が出るから生物売人と開発業者の利害が一致する。そのトバッチリで希少生物種も個体数を当然減らす。例えば誤同定を促すような、希少生物を世間に認知されにくいような、どうでも良い宣伝をし続ければ、大衆が気付かず自然界の希少生物を不注意に扱うようになるのはどう考えても自明だ。

 生物種の保護や規制をするにも「世間の認知」で如何に油断させないようにするかを前提に考えなくてはならない。生物分類学・生物学も、物理学や化学などの科学と同じく生活に密接したインフラに関わりがあるが、だからといって庶民の関心からは程遠い分野である。だから、希少生物種と普遍的生物種をごっちゃにして考えさせるような情報発信は害悪であり、誰からも未知な生物種も人知れず絶滅する事を止めきれない。保全云々言っている人達も中には、他の業種などへの皺寄せ解消まで考えていない辺りが逆効果を生じさせているとも考えられる。いまもそうだが不完全と見られるクオリティのデータベースでは誰も納得させられない。良いとこ取りや勝手な都合で恣意的に綺麗事を並べるんじゃなくて、灯台下暗しの思考を辞めなくてはならない。

 だから私の手元には、誰も「未記載種」とすら認知していないような未記載種だろう標本群を、記載は出来ない数量でも意義有りとして密かに集め、この可能性を如何にして知らしめるべきか常に考えている。物証なくして納得は得られない。その為には膨大な研究者らが与える分類学へのあらゆる被誤認を取っぱらって行く必要がある。"誤認"を一つ一つ看破していくのには新種記載を論文でやるよりも1歩1歩大きな前進がある。

【追記】

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(公式には未記録未記載種だがラベル上では30年ぶり)

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(でも1〜3頭しかないと考察が難しい)

 未記載種かもしれないからと言って急いで記載されなくても良いと考える。私がどちらかと言うと未知種ならば原産国の人に記載して欲しいと思っているというのもあるし、記載されるなら完全な体裁に出来るまでされない方が良いとも考えるからである。だが「未知種」を知るには、やはり圧倒的な観察量が必要になる。知ったかぶりをしている人は、擬態と演出に全力をかけるので意味が無い。如何に其れを分かる人を増やすかが大切で、如何に分からないままの人を増やさないかという事も大事と考えられる。

人間というものは、進歩に進歩を重ねた挙げ句の果てに、文明と名付けられるものの行き過ぎの為に自滅して倒れてしまう日が来るように思われる。
(ジャン・アンリ・ファーブル)